六十年、あゆみの記
めもいら
4章 / 全5
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結婚・家族

 二十六歳の夏、私は浜名湖のほとりで、自分の人生がひとつに定まる瞬間を経験しました。その夜のことは、三十年以上が経った今も、まるで昨日のことのように胸の奥に刻まれています。花火大会は小さなものでした。地元の人間だけが知るような、観光客もほとんど来ない、湖畔の広場で開かれる素朴な催しです。それでも、夏の夜空に咲いては散る光の粒は、湖面に映ってたしかに美しく、私は浴衣姿の美智子と並んで腰を下ろしていました。

 美智子と出会ったのは、その半年ほど前の冬のことです。母の知り合いの娘さんで、隣町の小学校で事務員をしているとのことでした。縁談というほど改まったものでもなく、ただ「一度会ってみては」という程度の、のんびりとした出会いでした。しかし私は、最初の数回の逢瀬でひどく緊張していました。営業で取引先を訪問するわけでもないのに、毎回ネクタイをきちんと締め、会話の糸口を探しては、天気の話や近所の店の話ばかりを繰り返していました。彼女はいつも静かで、私のたどたどしい話をおとなしく聞いていました。今になって思えば、あの頃の私は、沈黙を恐れるあまり、かえって言葉で空間を埋めようとしていたのでしょう。

 花火大会の夜も、大差はありませんでした。隣の席に陣取ったグループが酒を飲みながら大声で笑い合っていて、花火の破裂音すら満足に聞こえないほどでした。終演の合図とともに人波に押されるようにして会場を出て、湖畔の細い道をふたりで歩き始めました。蝉と虫の声が草むらから湧き上がり、湿った夜風が肌に絡みつくように流れていました。どこかの屋台が店じまいをしているのか、焼きそばの香ばしい匂いがまだ空気の中に溶け残っていました。私はまた何か話さなければと焦っていました。そのとき、隣を歩いていた美智子が、ふいに口を開いたのです。「健一さんって、無理して話そうとするのね」と。

 私はぎくりとして、足が少し止まりそうになりました。何と返せばよいのか、まったくわかりませんでした。しかし彼女は続けました。「いいよ、別に。喋らなくても、横にいる感じが、ちゃんと伝わるから」そう言い終えると、彼女は前を向いてまっすぐ歩き続けました。私はその数歩後ろをついて歩きながら、目の奥がじわりと熱くなるのを感じていました。二十六年生きてきて、自分の「黙っていること」を誰かに肯定されたのは、たぶんそれが初めてのことでした。それまで私は、沈黙とは何かが欠けている状態だと思っていました。しかしあの夜、彼女の言葉は、私のなかにずっと居座っていた小さな引け目を、静かに溶かしてくれたのです。

 彼女の家の玄関先で「また」とだけ言って別れ、自宅へ向かう夜道を一人で歩きながら、私は「この人だ」と、声に出さずに思っていました。プロポーズはそれから半年後の春のことで、桜がまだ散り際の頃でした。しかし心の中では、あの夏の湖畔の道で、すべてが決まっていたように思います。結婚してから三十三年が経ちました。この長い年月のあいだに、子どもたちが生まれ、育ち、巣立ちました。家の中はにぎやかな時期もあれば、しんとした季節もありました。それでも私と妻は、今もあまり多くを語り合いません。夜、縁側に並んで茶をすすっていると、ときおり湿り気を帯びた風がふっと吹き込んできます。その風を感じるたびに、あの花火大会の帰り道が、遠くからよみがえってくるのです。隣に彼女がいる、ただそれだけのことが、私にとってはずっと、何よりも確かなことでした。